げんき便り 2015年7月号「私の死生観」

つい最近福島ご住職より「先生の死生観は?」と禅問答ごとき依頼をされました。誰しも生まれてしばらくは全く覚えていませんし、少しずつスナップ写真の如くポツポツと記憶が生まれるようになり、10歳の頃にようやく物心がついてきた気がします。社会の中で生きる自分を意識するようになり、「どのように生きたらいいのか?」「今突然自分が世の中から居なくなっても何も変わらない」と思ったりしていたのを思い出します。やがて思春期となり抑えきれないエネルギーを持て余す年になると、オートバイを乗り回し、岩登り、雪山、学生運動と今思えばわざと危険な事ばかりをしてきたように思います。その頃は「好きなことをやって死ぬなら本望だ」とさえ思っていて、さぞ両親に心配をかけた事でしょう。

ところが25歳になった頃、岩登りの途中で急にものすごい恐怖心に襲われ身体が動かなくなりました。その時初めて「死にたくない」「まだ世に出て何もしてないのに」と心から思い、その後ピタリと無茶な事をしなくなりました。あれは何だったのでしょう?天の啓示だったのでしょうか?それ以来人が変わったように全くの品行方正な人間になりました。

医者になってからも日頃診ている患者さんの何か役に立つヒントがないか常に考えるようになりました。ただ医療に何十年もかかわって思うことは、「医療は万能ではない」と言う事です。患者さんの訴えによく耳を傾けて相談に乗り、寄り添い自然に治っていくのを時間の経過とともに見届けるのが精一杯です。後は本人の運と天の意思に頼るのみです。

今までの人生を振り返ってみれば、やりたい時にやりたい事を思い切りやり抜き、時に天の声に戒められつつ修正し、やっとの事生きてこられたような気がします。

赤ちゃんは生まれて来る時は周りから祝福されますが、本人は「大変な世の中に生まれてしまったよ!」と泣いているのだそうです。

逆に人が亡くなった時は悲しむのではなく「よく大変な人生を生き抜いてきたね!」と尊敬の念を込めて拍手で見送ってあげると良いと聞きます。参考にしたいと思います。

院長