NO.102

平成12年11月1日発行

最近また、いじめを苦にしての女子中学生の自殺の報道がありました。
小学校3年生から延々と6年間も「汚い、臭い、プールの水が腐る」などと続けられていたとの事。自殺した本人はもちろん残された家族の無念さを思うと胸が痛みます。

しかしほとんどのいじめは、つきつめていくと、いつ誰がどのようにして何をしたという具体的なものははっきりせず、責任の所在があやふやのまま終わってしまいがちです。
それでは当然、いじめに加わった人達の「いじめをしたという自覚」や「反省」も期待する事ができません。

なぜそういう事が起きてしまうのかを考えるヒントをある評論の中に見つけました。
その話はあるいじめの実話から始まってました。
ある筋ジストロフィーの子をある学校が健常児との「ふれあい教育の一環」として受け入れ「美談」として紹介されたのですが、実は後にクラス全員による陰湿な「いじめ」へと発展し、クラス全員が参加していた事もあってなかなか担任も気付かず、学校・教育関係者達にかなりのショックを与えた事件があったそうです。

ほんの短期間なら「ふれあい」とか「やさしさ」を発揮できる人間も、それが長期となり、日常となると、自分達と異質な存在を視界から排除する事で、「安定した、能率良い、いつもの日常生活」を維持しようとする「本性」がどうやら人間にはあるらしいのです。
それを英語で「ヴァルネラビリティ」と言い、「攻撃誘発性」と訳すのだそうです。

女子中・高生達が毎朝、髪をシャンプーしないと気が済まないのも、ある種自分に向けられた「ヴァルネラビリティ」とも言えるし、最近はやりの「除菌」「消臭」ブームもその流れとも言えそうです。
ホームレスの人を河に投げ込み殺したり、おやじ狩りをするのも同じ。
そのようにして「むかつく」相手や対象を排除した後に、私達は果たして「真の安息」を手に入れる事ができるのかというと、実はそうではない事も分かっています。

一つの排除作業を終えた後も、次なる排除対象を新たな「むかつき」の対象として探し出し、いじめざるを得ない心の癖のようなものがいつか身についてしまう。
そしていずれは、いつか自分までもがその対象にされはしまいかと不安となり、いつもビクビクするようになり、そうならないために、常に皆と同一の行動、同一の歩調を取ろうと涙ぐましい努力をし、新たな獲物(スケープゴート)を見つけては安心する。

この悪循環をどう断ち切り、自分の中にある「ヴァルネラビリティ」と真正面から立ち向かい「むかつく心」と共存し、いかにコントロールしていける心の強さを身につけていくかが大切だと思います。
これは人間の「業(ごう)」とか「性(さが)」との闘いであると同時に、現代社会が創り出した「歪んだ文化」がかかえる問題でもあると思います。

真にやさしい、暮らしやすい世の中を創ることは、他人の多様性を認め、大目に見る寛大で強くてやさしい精神(理性)を培うことと一緒ではないでしょうか?