NO.131

平成15年7月1日発行

最近息子の通う公立中学校から学校崩壊の危機のSOSの便りが来た。
さっそく緊急全校保護者会が75%以上の出席で行われたが、現状報告(殴られたりつばを吐きかけられたりする先生も続出、辞めた先生もいるとのこと)のみでさしたる妙案も出ず、翌日からも学校は同じように荒れ続けていた。

私は意を決して2度ほど一人で自主授業参観を試み、教室内・廊下をうろついたり授業を妨害したり、服装の悪い生徒に声をかけて注意をしまくった。

その時はおとなしくやめたり、翌日から服装を直してきたり一応効果があって先生方から感謝されたが、しばらくすると又もとに戻ってしまったようだ。

注意したときは「誰だよてめえは」と言われ眼を飛ばされじっと目と目を合わせて逸らさずにらみ合い、今思えば命がけだったように思いぞっとする。(目撃した息子からはパパすごいと尊敬されちゃいましたが…)

その後反省したのだが、多少父権をを示すことはできたかもしれないけれど、そのような全生徒をあおっている主犯格の不良少年達に大人たちが毅然とした態度で臨むだけでは本質的な解決にはつながらず、もっと対話を重ねて彼らの考えていることに耳を傾け、今何をしたいのか、自分の将来をどう考えているのか(夢がないのかどうか)もっとフランクに話し合える場を作り、彼らのエネルギーの向ける方向を建設的な方向へ向けることに成功しなければ。

それにしてもその子達の家庭はどうしつけてきたのだろうか、父親達は思春期の子供たちにどう向き合っているのか。もし家庭がしつけを放棄せざるを得ないような状況なのであれば、保健室の先生やスクールカウンセラーを量的にも質的にももっと充実させ、力量を高めて彼らに積極的にアプローチしていく必要があるだろう。

それとも学校内に警察力を入れて徹底的に取り締まるしか道はなくなってしまう程、日本の社会は荒廃してきてしまったのだろうか。

以下の新聞記事が目に留まりとても考えさせられたので載せることにしました。ご一読下さい。


日本国憲法第九条が戦争放棄を宣言していることを理由に、自衛隊を違憲だと主張する人たちがいる。憲法の条文にのっとって「国際平和を誠実に希求」すれば、その高邁な理念によってすべての武力紛争は解決すると信じるからだ。

戦争が起こるたびに軍隊を不要とする平和主義者が巷にに溢れる。だが不思議なことに警察を不要だと主張する人はいない。軍隊も警察も国家が独占する暴力であることに違いはない。

警察力の放棄が荒唐無稽なのは、社会平和を誠実に希求しても犯罪が無くならないことを誰もが知っているからだ。どんな社会であれ、人々が安心して日々を過ごすには犯罪を抑止する強力な暴力装置が必要だ。

生徒のいじめや自殺は公立の中学校で頻発し、私立中学ではほとんど起こらない。なぜだろうか?

それは私立中学が秩序維持に必要な『暴力』を行使できるからである。といっても、体罰教師を雇っているという意味ではない。

私立中学にあって公立中学にないもの。それは退学処分権だ。私立学校で生徒の安全を脅かすような事件が起こると、翌年からその学校を受験させる親はいなくなる。生徒が集まらなければ私立学校は倒産してしまうから、校長から事務員までも秩序維持に関して一歩も引かない体勢ができあがる。

私立学校のいじめ対処法はシンプルだ。全力を挙げて犯人を捜し出し、即座に退学させてしまう。これが抑止力となって、生徒も『武力行使』を誘発するような真似はしなくなる。

それに対して公立中学は、義務教育によって、問題生徒を排除する選択肢を奪われている。どんな生徒も平等に抱え込んでいかざるを得ないなら、警察のない社会と似ている。教師の献身的な努力にもかかわらず悲惨な事件が続くのには構造的な問題がある。

この欠陥を補うために、かつての公立学校は民間の暴力装置を利用していた。番長の率いる不良組織だ。

一般生徒にとって、番長の決めたルールを侵すことは最大のタブーだった。学ランの長さから喫煙場所まで、生徒自身の手で厳格な規範が定められていた。

多くの場合、暴力の匂いを持つ教師だけが番長と対等に交渉できた。体罰教師と番長によって裏の秩序が仕切られ、学校の治安が保たれていた面がある。

やがて暴力を批判する風潮の中で体罰教師は消えていった。いつの間にか番長もいなくなった。それと軌を一にして陰湿ないじめが社会問題化したのは偶然ではないだろう。